リフォーム 大阪の特異性と共通点
Yも九人の一人としての立場から、副総裁としての判断に戻っていった。
HとYを両脱みしていたFもだれに追随するかを確認した。
Hはほぼ固まった手元の案から目を上げ、一渡り見渡した。
「これで行かざるを得ないだろう」執行部三人の領きを受けて、Nも領いた。
量的緩和策の操作目標が持論のマネタリーベースではないものの、実態はこれまでの自らの主張を踏襲したのは明らかだった。
明らかに第三章でみたN先行パターンの再現であり、同時に、N銀の一八○度転換パターンの繰り返しでもあった。
だが、一人だけ、領かなかった委員がいる。
Sだった。
Sは憤慨していた。
H以下のN銀執行部がこれまで、否定的に扱ってきた量的緩和策へ転換するには、これでは議論不足ではないかと。
実際、Hは常に量的緩和策を批判してきた。
決定するほぼ一ヵ月前の一月十四日の会見でも、「(量的緩和策は)技術的に非常に難しい。
現在のNは、こうした『実験的な手段』に訴えるべき状況にないと、考えている」と語っている。
その際、量的緩和策が有効であるための必要条件として、@量的な金融指標と実体経済の関係とが安定していることA量的目標をある程度自由にコントロールできることの一点を指摘した。
一月一十八日の政策委では、次回(三月十九旦以降の会合で、この一点を含め量的緩和策などについては引き続き検討を深めるという合意を委員間でしていた。
このためSには、三月十九日の会合だけで検討が深まって結論に至るとは到底思えなかった。
Sは一人、議長案に反対票を投じた。
理由も明確だった。
「これまでN銀では量的指標と実体経済の関係が安定的ではないとして量的ターゲットの政策には一貫して反対であった中で、今回の政策の変更について十分議論が尽くされていない」後にSは筆者に当時の心境をこう語った。
「量的緩和の効果については、それまでの三年間、政策委で議論を重ねてきた。
だが一貫してデメリットのほうが非常に大きいというのが執行部の見解だった。
それが突然変わるわけだから、変わるなら変わるだけのものがもう少しなければならないというのが私の不満だった。
この日(三月十九日)に答えが出ないとどうするという強迫観念もあった。
みんな腰が引けていた」ゼロ金利、量的緩和策など、HN銀体制下で実践した未曽有の金融政策の評価を巡っては、すでに学者やエコノミストたちの手による専門的な分析が多数行われている。
そうした専門家の分析の中で、明瞭にN銀擁護論の論陣を張ったのが、経済学界の大御所、青山学院大教授のK隆太郎だった。
ゼロ金利の評価を巡るKと米エール大教授で前内閣府経済社会総合研究所長を務めた浜田宏一の論争は、激しくかつ抱腹絶倒ものだ。
両教授の対立は量的緩和策でも同様。
筆者には大家の論争のどちらかに軍配を上げる能力はない。
ただ、量的緩和策についてのKのその後の評価は、必ずしも経済学的知見に基づいたものではなく、本書の政策検証の狙いと微妙に絡むため、ここで触れておく必要があると思われる。
Kは三月十九日の決定について次のような評価を下している。
「N銀政策委の多数派はそのような(量的緩和策でマネタリーベースを増やす政策がマネーサプライ増加につながるという)考え方に懐疑的であったのではないかと推察される」「たぶん単純に再び金利誘導目標を○・○一%(ゼロ金利のこと)に戻すのはバツが悪いから(量的緩和策を採用したの)だろう」「政治圧力を緩和するためには、多数の政治家・学者・マスコミ関係者が盛んに要求し、さらには一部の審議委員も同調していることを、まったく無視し続けるわけにはいかない、という状況に直面しての苦渋の選択だったのではないだろうか」以上を要約するとこうなる。
『本来は、政策委の多数派は量的緩和策に懐疑的だったが、ゼロ金利に戻るのはバツが悪いし、政治やマスコミがワイワイ言うので、苦渋の選択をした』。
加えてKは、「現実の経済政策に関わる判断には、理論のウエイトは四分の一か三分の一くらいであり、全体としてバランスのとれた総合判断ができないと、経済政策の実務家としても、政策を論じる者としても不適格」との趣旨も述べている。
恐らくKがここで言いたいのは、N銀は単に理論だけでなく、政治経済学的な判断で政策を変更したという点だろう。
確かに、金融政策の運営も政治経済的力学と無縁ではあり得ない。
いや、むしろもっともそうした力の影響を受ける可能性が高いかもしれない。
しかし、だからこそ、N銀法は改正され、N銀に金融政策決定の独立性が与えられたことを忘れてはならない。
その政策の妥当性を担保するために、従来の政策決定プロセスでは考えられなかった説明責任原則が適用されている。
Kの言う多数派が、N銀執行部を中心とした人々を指すのかは定かではない。
もしそうだとして、政策実務を十分知り、かつ政策を自ら決定する権限を与えられた人々が懐疑的と思う政策を、バツが悪いからとか、外の目が気になるとかで、なぜ「苦渋の選択」をせざるを得ないのだろうか。
Sのように、検討不十分だとして「待った」をかけた委員もいた。
筆者はこの時の量的緩和策の決定が間違ったと言っているのではない。
おかしいと思えば、Sのように拒否すればいいのである。
それが政策委員の責任であり、権利である。
賛成したからには、その政策責任を負うのは明白である。
量的緩和策は現在(二○○四年一月)も続いているが、デフレ脱却の即効性は十分には得られていない。
しかし、その一方で膨大な流動性が金融機関に供給されたことから金融システム対策の役割を担い、そうして金融機関を下支えすることでデフレの一段の深化に歯止めをかけてきた側面もあるのではないか。
次章でみるように、極限での追加緩和効果があったことも事実である。
Kの言う「総合的判断」の名の下に、日本の政府・N銀はこれまでどれくらい政策の失敗を積み重ねてきたのだろうか。
しかも、その失敗に対する政策責任が顧みられたことはほとんどない。
民間企業量的緩和策実施から一カ月ほど過ぎたころ。
特ダネが流れた。
「HN銀総裁が辞意。
健康不安理由に、後任、F元副総裁を軸に」との報道だった。
それによると、Hは量的緩和策を決定した一月、首相の森に対して辞意を伝えた。
森は内閣交代が視野に入っていたため、総裁の辞意を預かり、四月一十六日に発足したK純一郎新内閣に引き継いだという。
早速、新聞各社は『H総裁の三年間』を振り返る企画記事を掲載するなど、辞任確定、後任総裁に焦点が移る急展開になった。
だが、結局、この時の騒動は一週間ほどで「なかったこと」になる。
ただ、必ずしも誤報でもなかった。
Hが首相の森と蔵相の宮沢に任期途中での辞意を漏らしたのは、まず間違いなかった。
三月一十八日。
N銀氷川寮で、同月末に退任するSの送別会が開かれた。
出席者によると、送別の挨拶に立ったHは、政策委で苦楽をともにしてきたSの功績を褒め讃えた。
元々、HとSの考え方は伝統的金融政策を基本とする点で似通っていた。
ゼロ金利採用にも、そこからの早期解除も、そして量的緩和策に懸念を抱く点でも、共通していたと思われる。
HはSの行動を振り返って評価、「一緒になってゼロ金利解除に闘ってきたのに、こういう状況になって残念だ」としんみりと語った。
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